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 | 3月23日はキリストの復活祭。 キリスト教では大々的にお祝いをします。
 
 その前日こんなことがありました。復活祭の礼拝の中で、朗読する聖書があります。その朗読は、聖書台のところに聖書をおいて行います。
 その聖書日課の朗読を誰にやってもらうかの相談をしていました。
 
 こういうときにはいつも自然と障害者は勘定に入ってはいないものなのです。
 
 視覚障害を持つHさんから
 「私が読みましょうか」
 という発言がありました。
 すると、
 「Hさんが読むとなると聖書台の上の分厚い聖書をどけなきゃいけないから、面倒くさいから悪いけど今日は遠慮して。
 いつも礼拝でHさんが聖書朗読当番のときはそうしてるのよ。
 Hさんは知らないかもしれないけど」
 という答えが返ってきました。
 
 「それじゃあ、聖書をどけなくても読めるかどうかやってみましょう」
 とHさんは言って、実際にやってみると、案外支障なく読めることが判明。
 「はい、はい、じゃあこれからは聖書はどけないからね」
 と、その方はなんだか心外そうでした。
 
 いつも点訳とか、朗読とか、そのほかのいろいろな介助を積極的になさっている方なのに、その心の底に、おそらく無意識の内に、
 「やってあげてるんだ」
 という気持ち、あるいは
 「だから無条件に私の考えに従うのが当然だ」
 という考えがあったのかな、と思うと、なんだか悲しくなりました。
 
 薫風を遮蔽しているものにはいろいろあります。
 社会制度や、家庭や経済などの環境。
 そしてこんな風な、無意識の(あるいは意識的な)思い込み、こいつが一番始末に悪いんじゃないかなあ〜。
 
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 08:26, Friday, Mar 28, 2008 ¦ 固定リンク
 
 
 
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