飛鳥・藤原の宮都が世界遺産になった。今日は世界遺産の時間を過ごす。
2026年8月2日 ルート図

藤原宮跡にまず行った。推古天皇の国の理想を実現しようと、この地に政治、経済、宗教などの中心を据えた、いわば国会議事堂と霞が関と丸ノ内がここに集約されていると考えてよい。現在に至るまでも「日本」の基礎が据えられたところといってよいだろう。
藤原宮跡

同じ敷地内にある蓮池。

蓮の花

近くに醍醐池があり、そのほとりにある持統天皇の歌碑。「張る過ぎて夏来たるらし白妙の衣干したり天の香久山」と刻まれている。
「張る過ぎて夏来たるらし白妙の衣干したり天の香久山」

醍醐池。封建時代ゆえに葬ってもらえなかった人たちをこの池に埋葬したといわれている。

大官大寺跡。飛鳥・藤原地域で建立された古代寺院の中では最大の寺院で、現在は、水田の中に碑が建っているのみ。
大官大寺は、舒明天皇が発願した百済大寺を天武天皇の時代に移築・改称されたそうだ。
大官大寺跡

飛鳥寺。推古4年(596)、仏教を保護した蘇我馬子の発願により日本初の本格的寺院として完成。本尊は銅造釈迦如来坐像(重要文化財)。飛鳥時代の作で日本最古の仏像。
飛鳥寺

飛鳥大仏

飛鳥大仏を右から見れば険しいお顔。

飛鳥大仏を左から見れば優しいお顔

飛鳥寺の庭園

思惟殿。堂内には、聖観世音菩薩が安置されている。

鐘楼。1745年に建立。鐘を鳴らしてよく一打ちした。済んだ音がずっと響いていた。

本堂。飛鳥大仏が安置されている。

亀形石造物。謎の石造物で全長2.4m、幅2mの亀形を呈する。顔を南向きに据えられ、丸く彫られた両目、4本の指の表現が施された両足が特徴的。
政治を占う施設とか、身を浄める場所などさまざまな説があるらしい。
亀形石造物

石舞台古墳。墳丘の盛土が全く残っておらず、巨大な両袖式の横穴式石室が露呈しているという独特の形状。
被葬者は7世紀初頭の権力者で、大化の改新で滅ぼされた蘇我入鹿の祖父でもある蘇我馬子の墓ではないかといわれている。
石舞台古墳

古墳入り口

古墳の中に入ってみた。

岡寺。創建は寺伝によるとおよそ1300年前、天智天皇の勅願によって義淵僧正が建立されたと記録がある。
岡寺の仁王門

西国三十三所観音霊場の第七番札所として西国霊場草創1300年来、第七番の観音様として信仰を集めており、また日本最初やくよけ霊場としても知られている。
仁王門をくぐると不動明王を置いた小さな庭園。

鐘楼

ここでも一突きした。

岡寺の本堂。山号は 東光山(とうこうさん)、院号は 真珠院(しんじゅいん)、寺名は 龍蓋寺(りゅうがいじ)といい、山号・院号・寺名がそれぞれあり『東光山 真珠院 龍蓋寺』となる。しかし古来より土地の名から『飛鳥の岡にある寺』つまり『岡寺』と親しみをこめて呼ばれていて、現在では宗教法人としての名も『龍蓋寺』ではなく『岡寺』となっており、『岡寺』の名で知られているとのことだ。岡寺のことを知るとますます面白い。
奈良時代の制作にかかる巨大な如意輪観音座像が本尊としてまつられている。

本堂から石段を上がっていく。

稲荷社がある。

そしてさらに奥には石窟があり弥勒菩薩座像が安置されていた。

ヤブミョウガが咲いていた。

道なりに進んでいくと三重宝塔。

橘寺。聖徳太子のお生まれになった寺とあった。

東門をくぐって境内へ。

本堂。ご本尊は、聖徳太子35歳の時、勝鬘経を講讃された「聖徳太子座像」。国の重要文化財になっている。
本堂

西門を抜けて聖徳太子生誕の地へ行ってみた。

下馬の碑があり、ここにあった馬小屋の中で生まれたそうだ。

橘寺の境内に戻って、これは観音堂。如意輪観音坐像(重要文化財)が祀られていた。

寺巡りはお終い。これから古墳巡りをする。まずは高松塚古墳。資料館に行って壁画の模写を見ることができた。
男子群像の模写。左に青龍。これを見ることができただけでもゾクゾクする。

資料館から散歩コースで高松塚古墳へ。7世紀末から8世紀初頭にかけて築造された終末期古墳で、直径23m(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳。被葬者は特定されていないとのことだった。
高松塚古墳

歩いて10分ぐらいのところに中尾山古墳がある。
中尾山古墳は別名「中尾石墓」と呼ばれる終末期古墳だ。石槨構造や規模等から骨蔵器が納められていたと考えられている。被葬者については中尾山古墳の立地や年代、火葬墓であることなどから文武天皇檜隈安古上陵の蓋然性が高いと考えられているとのことで、古代のロマンを感じる。
中尾山古墳

次にキトラ古墳資料館へ。
資料館での学習も楽しかった。キトラ古墳壁画は、石室内部に塗った漆喰の上に繊細な筆づかいで描かれたもので、資料館には漆喰を塗る前と塗った後の展示品もあり、手で触ることができた。
壁画には、本格的な天文図や、四神像の全て、動物の頭と人間の体をもった十二支像などが描かれていて映像で見ることができた。事前学習を行ってキトラ古墳へ。
キトラ古墳は、高松塚古墳に続き日本で2番目に発見された大陸風の壁画古墳。二段築成の円墳で、上段が直径9.4m、テラス状の下段が直径13.8m、高さは上段・下段あわせて4mを少し超える。
名前の由来が面白い。中を覗くと亀と虎の壁画が見えたため「亀虎古墳」と呼ばれたという説、古墳の南側の地名「小字北浦」がなまって「キトラ」になったという説、またキトラ古墳が明日香村阿部山集落の北西方向にあるため四神のうち北をつかさどる亀(玄武)と西をつかさどる虎(白虎) から「亀虎」と呼ばれていたという説など、いろいろな説があることが資料館に掲げられていた。
7世紀末~8世紀初め頃に造られたと推測されている。古墳時代と呼ばれる時代の終わり頃のことだ。この頃の古墳は終末期古墳と呼ばれ、古墳時代前期の巨大な前方後円墳から円墳や方墳へと形が変わり、古墳そのものも小さくなっている。
キトラ古墳

キトラ古墳に埋葬されている人は、天武天皇の皇子である高市皇子、高官であった百済王昌成、古墳周辺一帯が「阿部山」という地名であることから右大臣の阿部御主人など、いろいろな人物が想像されているが定かでない。
また、金や銀を使った副葬品や豪華な装飾をほどこしたと推測できる木棺などから、かなり身分の高い人のお墓であったと推測しているらしい。
キトラ古墳

そろそろレンタカーを返却する時間が近づいてきた。これで飛鳥・藤原宮都時間は終了だ。明日の午後のフライトで帰長する予定。
まだもう少し時間がある。明日の午前中は何を楽しもうか。


